
五十歩と百歩は、倍も違います。
歩いて帰る距離なら、五十歩短いのはありがたい。競走なら、その差が勝負を決めることもあるでしょう。それなのに、故事成語では「どちらも同じようなもの」と言われます。
数字は、いつから役に立たなくなったのでしょうか。

違いは消えていない
『孟子』に、戦場から逃げた人たちのたとえがあります。百歩で止まった人もいれば、五十歩で止まった人もいる。五十歩の人が百歩の人を笑ったらどうか、と孟子が尋ねると、梁の恵王は、百歩ではないだけで逃げたことには変わりない、と答えます。
距離が同じだと言っているわけではありません。ここで判断しているのは、逃げたかどうか。その点では、自分も相手と同じ側にいるのです。
違いがあることと、その違いで相手を笑えることは、別の問題でした。
自分に都合のよい物差し
ここからは、身近な場面に置き換えて考えてみます。
約束の時間を過ぎて来た二人が、「私は五分だけ。あの人は十分も遅れた」と言い合っています。待っていた人からすれば、まず聞きたいのは、どちらがましだったかではなく、なぜ連絡がなかったのかかもしれません。
もちろん、五分と十分の差が大切な場面もあります。遅れを減らす工夫を考えるなら、数字をきちんと見る必要があります。
「五十歩百歩」は、あらゆる差を無視してよいという言葉ではありません。自分に都合のよい違いだけを選び、共通している問題を見なくなる。そのときに、足元を見直す言葉として使いたいのです。
王様が聞きたかったこと
このたとえの前で、恵王は、自分は隣国の王より民のために心を尽くしているのに、なぜ人々が集まってこないのか、と尋ねています。
孟子は、五十歩の話で王の比較の仕方を問い直し、その先に、人々が暮らしを立てられる政治の話を続けます。農作業の時期を妨げないことなど、生活を支える具体策へ進むのです。
相手よりよいと証明するだけでは、目の前の人が困っていることは解決しません。「どちらがましか」から「何をよくするか」へ、話を進める必要がありました。
比べる前に 決めておくこと
誰かとの差を見つけたとき、その差は、いま考えるべき問題に関係しているでしょうか。
五十歩の差を大切にすべき場面もある。五十歩の差に隠れてはいけない場面もある。
数字を見る前に、「何について判断しているのか」を言葉にしてみる。そうすれば、人を笑うために持っていた物差しが、自分たちをよくするために使えるかもしれません。
出典:『孟子』梁恵王上。兵士の話は、孟子が王に示したたとえです。実際の特定の戦闘の記録としては描きません。現代の例は、この読み物の解釈です。