
空が落ちてきたらどうしよう。そんな心配をしていた人が、説明を聞いて安心しました。よかった、よかった。
ところが『列子』を読み進めると、そこで話は閉じません。「壊れないと言い切るのも、おかしくないか」と、別の人が口を開くのです。取り越し苦労を意味する「杞憂」の物語には、安心のあとの問答が待っていました。

心配する人を 心配した人
『列子』の「天瑞」篇に、杞という国の人が登場します。天地が崩れたら、身を置く場所がなくなってしまう。そのことが気がかりで、眠ることも食べることもできません。
そこへ、彼の心配を気にかけた人がやって来ました。天は「気」の集まりで、私たちもその中で息をし、動いているのだから、崩れることを心配しなくてよい、と説明します。
では、太陽や月や星は。では、地面は。質問が続くたびに、相手は答えます。最後には、心配していた人も、説明した人も、すっかり安心して喜びました。なお、ここでの天地の説明は古代の考え方で、現代の科学による説明ではありません。
めでたしのあとに 待ったがかかる
この話を聞いた長廬子(ちょうろし)は、笑って異を唱えます。気や土が集まってできているのなら、どうして壊れないと言えるのか。
長廬子も、今から天地の崩壊を心配するのは、あまりに遠いことだと見ています。しかし、壊れないと断言するのも正しくない。天地はいつか壊れる、とまで述べるのです。
安心して本を閉じかけた読者には、少し困った横やりです。さっきまで納得していた説明が、急に頼りなく見えてきます。物語の矢印が、心配する人から、心配無用と言った人へ向き直るところです。
最後の人も 正解を配らない
さらに、この議論を聞いた列子も笑います。天地が壊れると言うのも、壊れないと言うのも誤りだ。壊れるかどうかは、自分にはわからない。そのことに、どうして心をとらわれさせようか、と。
少なくとも、作中の列子は「長廬子の説明で決着」とはしません。崩れないという断定を、今度は崩れるという断定に交換して、安心するわけでもありません。
これは、心配性の人に正しい知識を教えたら終わる話より、ずっと落ち着きません。けれど、読み手には考える場所が残ります。自分が安心した説明は、確かなことを述べているのか。それとも、安心できる言い方だったから受け入れたのか。
杞憂だった と言える日まで
ここからは、日々の言葉として考えてみます。「杞憂に終わった」と自分の心配を振り返るときには、ほっとした気持ちを添えられます。一方、まだ困っている相手に「それは杞憂だ」と先回りすれば、話を打ち切られたように聞こえることもありそうです。
もちろん、災害への備えや、現実に確かめられる危険まで、取り越し苦労として片づける必要はありません。古代の天地の問答を、そのまま現代の備えの判断には使えないでしょう。
最初に訪ねて来た人は、天よりも、目の前で困っている人を気にかけていました。説明の正しさは後から問い直されます。それでも、誰かが心配していることに気づき、話を聞きに行ったという場面は、読み終えても残ります。
こんなときに、ひとこと
以下は日常場面を想定した創作例です。
① 持ち寄りの会で、作りすぎたと思った料理がすっかりなくなった。
「余る心配は杞憂だったね。持ち帰り用の容器だけが、きれいに帰ってきた」
② 友人の短い返信を気にしていたが、会うといつもどおりだった。
「杞憂でよかった。私の頭の中では、反省会が三次会まで進んでたよ」
出典:『列子』天瑞篇。杞人が安心する場面に続き、長廬子と作中の列子の発言まで紹介しています。天地の説明は古代の思想として扱い、現代科学とは区別しました。言葉の向け方や、助けに来た人に注目する読み方は、本稿の解釈です。