
逃げた馬が、よい馬を連れて帰ってきました。
いなくなったときは残念だったけれど、結果はかえってよかった。ここで終われば、安心して聞ける幸運の話です。ところが「塞翁が馬」は、そこで終わりません。
馬が増えたあとに息子がけがをし、そのけがのあとに戦争が起きる。喜ぶ場所と悲しむ場所が、物語の途中で何度も入れ替わります。

近所の人が 三度訪ねてくる
『淮南子』の「人間訓」に、国境近くに暮らす一家の話があります。あるとき、馬が向こう側の地へ逃げてしまいました。近所の人たちが慰めに来ると、老人は、これが幸いにならないとも限らない、と言います。
数か月後、その馬がよい馬を伴って帰ってきました。今度は皆がお祝いに来ます。ところが老人は、これが災いにならないとも限らない、と言います。
家に良馬が増え、乗馬の好きな息子が馬から落ちて、太ももの骨を折りました。人々が再び慰めると、老人はまた、これが幸いにならないとも限らない、と答えました。
同じ家に、慰め、お祝い、また慰め。訪ねてくる人の言葉が変わるたびに、私たちの読み方も揺さぶられます。
最後に来るのは 幸運だけではない
それから一年後、戦争が起こります。国境のたくましい人々は弓を引いて戦い、多くが命を落としました。息子は脚が不自由になっていたため戦いに出ず、父子は生き延びます。
ここまで読むと、「馬が戻って得をした」という軽やかな結末とは、空気が変わります。父子が助かった一方で、同じ土地には帰ってこなかった人たちがいるからです。
けがをしてよかった、戦争のおかげで助かった、と単純に喜べる話ではありません。一つの家にとっての結果を見て、ほかの人の苦しみまで消してしまわないように読みたいところです。
老人は 未来を言い当てたのか
老人の言葉には、次に何が起きるかの具体的な予告がありません。馬が戻るとも、息子が落馬するとも、戦争が起きるとも言っていないのです。
人々が「これは不運だ」「今度は幸運だ」と決めるたびに、まだそう決まったとは言えない、と問い返しています。未来を全部知っていた人物として読むより、目の前の出来事に結論を急がない人物として読むほうが、私たちには近づきやすそうです。これは、この読み物での受け取り方です。
原典も、幸いが災いに、災いが幸いに変わることの行方は、極めがたく、測りがたいという趣旨で締めくくられます。最初の不運が、いつか必ず報われるという約束ではありません。
元気を出して と急がなくてもいい
困ったことのあった人に、「塞翁が馬だよ」と言いたくなるときがあります。この先に別の道があるかもしれない、と伝えたいのでしょう。
ただ、いま痛いものは痛いし、失って困るものは困ります。「あとでよくなるから」と言われても、今日の困りごとがなくなるわけではありません。
ここからは、私たちの暮らしへの置き換えです。先の評価を保留することと、今できる手当てをすることは、両立するはずです。けがの手当てをする。残った仕事を手伝う。次の選択肢を一緒に探す。幸運への転換を待つだけでなく、目の前でできることもあります。
途中の一場面で 決めない
うまくいった日にも、この言葉を思い出せます。いまの成功を終着点にしない。喜びながら、次に必要な備えを考える。悪い日だけを慰める言葉にしないほうが、物語の両方向の動きが見えてきます。
「今日わかったことと、まだわからないことは何だろう」
逃げた馬の話を、帰ってきたところで閉じなかった。その先をもう少し読ませるところに、「塞翁が馬」の忘れにくさがあるのです。
こんなときに、ひとこと
以下は、日常場面を想定した創作例です。
1 予定外の店に入ったら
「目当ての店が臨時休業で、隣に入ったら大当たり。塞翁が馬、今日はランチで実感した。」
2 うれしい当選のその後
「抽選で当たったコーヒーメーカー。豆に凝り始めたら、節約の話は消えた。塞翁が馬、幸運の続きも読めません。」
出典:『淮南子』人間訓。逃馬、帰還、息子の骨折、戦争と父子の生存までを紹介しています。良馬の頭数は原文で明示されていません。老人の姿勢の読み取り、慰め方や備えについての提案は、この読み物の解釈です。